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『入門 医療経済学』
入門 医療経済学―「いのち」と効率の両立を求めて (中公新書)作者: 真野 俊樹出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2006/06メディア: 新書内容(「BOOK」データベースより)よい病院とわるい病院を見分けるにはどうすればよいだろう。レストランや車なら、高い値段のものが質もよいと考えればほぼ間違いはない。しかし医療では名医でも新米の医者でも値段は一緒であり、経済法則は働いていないように思える。では、なぜ医療の値段は同じなのか。本書は、医療が持つこのような特徴を、「情報の非対称性」「市場の失敗」等の視点から経済学的に分析し、今後の医療制度改革の方向性を提示する。 「ただ今読書中」としてフラッグを立ててからなんと10日が経過してしまっている。新書だしすぐ読めるだろうと思っていたが、その間の仕事が忙しすぎて時間のやり繰りがうまくいかなかったり、体調を崩して寝込んだりといったことが続いたため、読了するのに意外と時間がかかった。ただ、この本自体は必要が生じた時に改めて必要な個所を読み返すといったレファレンス・ブックのようなものである。何が書いてあったか上っ面だけでもさらっとかじっておけば、後は必要に応じてディッピングすればよい、そう割り切っている。以前、スタンフォード大学の青木昌彦名誉教授が、今の米国の経済学の主流は医療経済学であると仰っていたことがある。本書にもそれらしいことが書かれている。 アメリカでは、経済学者の多くが医療の問題を扱うようになっている。それは、GDPの約14%以上を占める医療の問題を経済学が無視できなくなっていることを意味しよう。アメリカにおいては医療経済学を専門としない経済学者も医療の問題に関心があるようで、この分野に関心がある医師も多く、ハーバード大学の公衆衛生学教室をはじめとして、さまざまな研究がなされている。これは明日の日本での医療経済学の姿かもしれない。(中略)医療経済学は情報の経済学、行動経済学、リスクの経済学、ゲーム理論やプリンシパル・エージェント理論といった分析方法を基にして、大きく進歩してきているのである。(p.128)明示的に書かれているのは米国で医療経済学が発展してきた背景には米国自身の医療事情があるということだが、もう1つ気付かされるのは、近年のノーベル経済学賞受賞者を見ていると、ゲーム理論(2005年のオーマン、シェリング)、行動経済学(2002年のカーネマン、スミス)、情報経済学(2001年のアカロフ、スペンス、スティグリッツ)と、医療経済学が扱う領域は経済学そのもののフロンティアを拡大してきたといえることである。僕はデリーでマイケル・スペンス教授の基調報告を聞いたことがあるが、医療というよりももっとマクロ経済学本流の方なのかなという印象を受けたが、スペンス教授の同僚でもあった青木名誉教授は、「スペンスでも医療経済学を扱うようになってきている」と仰っていた。

話が少しそれたが、米国でこうして医療経済学が発展しているとなるとインドのような途上国で何が起きるかというと、米国及び米国の影響が強い国際機関が行なうインドへの支援のメニューが医療協力中心となるということである。元々米国の援助機関USAIDは新興感染症対策には非常に強かったが、ここに来て「おやっ?」と気付かされるのは、新興感染症対策のようなどちらかというと医療技術そのものから発展してきた領域だけではなく、医療保険制度のような制度構築に対するUSAIDの関与の仕方である。USAIDがカルナタカ州の医療保険制度改革に対して技術協力を行なっているというのを聞いたことがあるが、こうしたタイプの技術協力は、日本がいくら頑張ってもすぐにできるものではないと思う。

あまり本書の説明になってないことばかりを書いてきた。面白い本だとは思うのだが、この本の核心がどこにあるのかが正直あまりよくわからなかった。医療を巡る様々な側面において経済学が貴重な分析枠組みを提供してくれるとしたら確かにそうだと思うのだが、医療経済学とは想像以上の広がりを持った学問領域で、医療保険制度改革のような比較的狭い関心に基づいて読み始めると、どこまで読み進めても鉱脈には辿り着けないし、、辿り着いても説明がさらっと書かれて済まされており、「え、これだけ?」という印象であった。広く浅く概観した読み物なので仕方がないといえば仕方がないことだ。

とはいえ、1つぐらいは印象に残った記述を紹介しておく。患者と医師 患者は医療の受け手である。これは時代が変わっても変わらない。しかし、患者と医師をはじめとする医療従事者との関係は少しずつ変化してきている。 まず医師患者間の「情報の非対称性」が変化してきている。この変化については、疾病構造の変化に起因している。急性感染症が疾病の主体であった時代とは異なり、現在は生活習慣病が多くなってきている。つまり「情報の非対称」を大きくしていた要因の、「急性」という部分が少なくなったわけだ。またもう1つの要因「不確実性」についても、たとえば糖尿病などは治療の効果は数字で表すことができる。いままでだったら触診で診断していたケースが、写真で病巣が示される。実は、現代では治療の効果・診断の結果・過程はそれほど「不確実」でもなくなってきている。 となると、情報の非対称性は、長期間の勉学によって得られた知識および医師としての経験、あるいはそこからくる権威のみになってしまったことになる。さらにいえば、長期間に及ぶ疾病の場合、患者の「意志」が重要になる。つまり生活習慣病に代表されるような疾病では、疾病を持つ患者がどう生きるかを自分で決定することになる。つまりこの状態では、患者はたとえば治療や手術の細かいテクニックはわからないまでも、こういった状況になりたいとか、こういう形で手術をしてほしいとか、プロセスや結果に関して意見を持ち、述べるようになる。これは、むしろ医師にはわからないことで、情報の非対称性が、逆に医師側に起きているということもできる。 ここまで考えてくると、従来のパターナリズム(家父長主義原理)的価値観で対応できる疾患が少なくなってきていることもわかるであろう。(pp.187-188)第1に、南アジアではスリランカあたりでは既に生活習慣病が全体の疾病に占める割合が相当高くなってきていると聞くが、そういうところでは医師の人材養成よりも患者の生活態度をどう変えるのかの方が大きな課題であるという点が改めて理解できたような気がする。

第2に、これはもっと個人的なレベルのこととして、なんでうちの顧問医が「メタボ対策として毎日グラフを付けよ」と言ってみたり、「こんな数値では海外勤務は認められない」と言ってみたりするのか、「情報の非対称性」というレンズを通して見てみたら顧問医に同情するところもあるなと感じた。顧問医の発言の過激さには辟易していたところもあるが、患者と医師の関係の変化、特に医師側に情報の非対称性が発生しているというくだりを見るにつけ、先生も不安なのだろうなというのがなんとなくわかったような気がする。売り言葉に買い言葉で応じるだけではなく、顧問医の置かれた立場にも思いをはせ、たとえウェートは78~79kgでここ数カ月大きな変動はないとしても、グラフぐらいはちゃんと付けてあげようと思うことにした。

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